庶民は名字が名乗れなかった?

家系図作りでは、同じ名字を名乗っていたご先祖様をさかのぼっていきますが、庶民はその昔、自分の名字を名乗ることができない時代がありました。

江戸時代の貞和元年(1801)第11代将軍徳川家斉のときに、幕府は武士を特権階級とする階級制度を確立するため、「百姓町人の苗字帯刀禁止令」を出しました。

明治3年に「平民苗字許可令」が出されるまで、武士以外の一般庶民は医者や学者等を除き、自分の名字を名乗ることが出来ませんでした。

「平民苗字許可令」が出された後も多くの人々が名字を名乗らずにいたので、明治政府はあえて、明治8年に平民も名字を必ず使いなさいという「平民苗字必勝義務令」を出しました。

このことは当時いかに一般庶民が名字を名乗りづらい風潮であったかを表わしていると思います。


では、江戸時代の庶民は、ご先祖様から受け継がれてきた名字を一切失くしてしまったのでしょうか?

いいえ、名字が名乗れないといっても、名字そのものをなくしたわけではなく、公には名乗れなかっただけのようです。

宗門改帳などの公文書に記載することは禁じられていましたが、村の祭事などで使われることもありましたし、過去帳等の私文書に名字が記載されていることもあります。


また、おもしろいことに、庶民や農民でも武家の奉公人になると名字を公に名乗れました。

武士は体裁を保つため階級によって家来を養わなければなりませんでした。

例えば200石の家禄(給料)をもらっている武士は5名、300石の家禄をもらっている武士だと7名の家来を連れなければなりません。

5名の内訳は馬の口取り・供侍・甲冑持ち・槍持ち・小荷田持ちの5名、7名の場合は上の5名の他に挟み箱持ち・草履取りの2名を合わせた家来を雇わなければならないという軍役規定がありました。

これだけの家来を抱えてしまうと家計が苦しくなってしまいます。

そこで「口入れ屋」が使われました。

口入れ屋とは「人宿」とも呼ばれますが、いわゆる人材派遣所のことをいいます。

それは登城する際に人数をきちんと揃えてお城に向かうためにこの「口入れ屋」から派遣をしてもらって、その日だけ武士なるケースや半年~1年の間武士になって主人から給料をもらうというものです。

この時は一般庶民も武士になるので、名字を公に名乗れます。

しかし雇用期間が終わって武士ではなくなると名字も公に名乗れなくなるのでした。



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